本の帯について ―― ジョージ・オーウェル『一九八四年[新訳版]』早川書房
先に断っておくと、私は今回の記事の表題について述べたいがためにブログを開設したわけであり、しばらく経って次の投稿が無いようであれば恐らく飽きて生息の範囲を狭め、Twitterへと還っていったのだろう。もしくは存在を忘れているか。
ともかく、その日私はやるべきことを終え友人たちと夕食を共にした後に帰宅すると、結膜炎と思わしき左目の症状を少々煩わしくも感じながらも一冊の本を手に取った。ここ数日、夜の数時間を読書の時間に充てながら、私の日々の楽しみとなりつつある本、ドミトリー・グルホフスキーの『METRO2033 上』(小学館, 以下『メトロ2033』)である。
上巻も後半に差し掛かり、意気揚々とページをめくりながらもそろそろ次巻を買わねば、と頭の片隅で考えていたその時、ふと、『メトロ2033』の帯が外れ床へと落ちたことに気づき、手を伸ばした。途端、そのオレンジ色の帯は非常に異質なものに、私の目に映り込んでいた。「ロシアで驚異の50万部超! 核戦争の戦慄!!」と書かれたそれを、私は今まで『メトロ2033』という本、さらに言えばその本という物質の表面を彩っているデザインの一部として、そのオレンジ色の帯を認識していた。しかしどうだろうか、帯が欠如してしまった本の表面には空白が生じるわけでもなく、むしろこれまで隠されていた――私の目からすれば今まで存在していなかった主人公アルチョムのズボンの形、ブーツ、そしてアルチョムの立つ線路の枕木が、私の目前に突如現れたのである。再び帯へと視線を落とす。本の表紙が黄緑を基調とした色合いをしているのに対し、不思議に合うようにも、合わないようにも捉えられるオレンジ色。比較的小ぶりに、目立たない形で本の表紙を飾る邦題に対してやけに大きく「核戦争」と日本語で強調してくる帯の煽り文句。帯を付けた状態で本の表紙を一枚めくると、カバーの袖に印刷されたモスクワの地下鉄駅の写真が、オレンジ色の紙片に隠され全く見えなくなってしまっている。
果たしてこの『メトロ2033』に、オレンジ色の帯が付けられる余地が残っているのだろうか。いや、そもそも帯というものは本の装丁を害する形で存在しているのではないだろうか。
ここで、私の脳裏にはかつて購入し、以降本棚の肥やしとなっている本、そしてこの記事のタイトルにもしたジョージ・オーウェルの『一九八四年[新装版]』(早川書房, 以下『1984年』)が浮かんだ。
私は『1984年』を買うまで、帯というものは本のデザインの一部であると信じており、それ故に買った本に付いていた帯はそのままの形で残し続けてきていた。しかし『1984年』が、より精確に言えば、ジョージ・オーウェルではなく早川書房の人間が、あるいは委託されたデザイナーが、私のそうした信念を打ち砕いたのである。私は覚えている限りでは初めて、本の帯を――それも新品のそれを――ゴミ箱へと投げ入れた。もはや恨みまで込めて。
では一体なにが私の怒りを買ったのだろうか。そこで、ぜひともその帯を見てもらおう。あまりのことで一種の感動を覚えた私は、本を買って帰宅するなり真っ先に、その帯の写真を撮ったのである。
この写真に写る帯を見てどう思うだろうか。私と同様、すぐさまこの帯を本から剥ぎ取り、ゴミ箱の中へ叩き込みたくなる衝動に駆られる人間もいれば、この帯に共感を覚え、感銘を受け、涙する人間もいるだろう。私はそうした人間の考え方の多様性は認識しているし、否定はするつもりはない。
しかしである。それを読む人間の思想は多様であっても構わないが、それを売りに出している人間――この場合は早川文庫から『1984年』を出版するに際して帯のデザインを考案したか依頼した人間、それをデザインした人間、これにゴーサインを出した人間すべてを含む――に対しては、もはや浅ましいとまで感じられる。
つまりは高尚なSF文学の金字塔が、作者と同郷でもない人間の俗な政治的思想に汚された――私の目には、そう映ったのだ。
ここに私自身が持つ思想とも言える思考の一端が見て取れるのだろう。つまり政治などで騒ぎ立て、扇動しているのは「低俗」であり、「高尚」な文学は不可侵であるべきだ、と。あるいは、読者の解釈は多種多様であるのだから、それに対して読ませる側が恣意的な立場を取るのは読者に対する冒涜なのであると。筆者 ― 読者という関係性に対し、単に仲介役でしかない(単なる和訳本に過ぎない場合は特にである)出版社は博愛主義的でなくてはならないと、私は考える。
話を元に戻そう。『メトロ2033』の帯が異質なものに見えてからというもの、私はオレンジ色のそれをもとにあった場所へ戻していいのか、わからなくなってしまっているのである。私の手から、そして本に付いていた状態から外れ、落ちてしまったその時から分裂してしまった「本」と「帯」。かつては包括して捉えられていたものが、今ではもう別個のものとしか捉えられず、その境界を再び曖昧なものとしていいのか困惑している。『1984年』の場合は最初から別個のものとして捉え、今なお捉え続けているのにも関わらず。私は『メトロ2033』に対する一先ずの対応として、本と帯とを別個に保管し始めるのである。
もしくは、私が「低俗」だと見るや否や捨て去ったあの帯は、皮肉の一種であったのだろうか。少なくとも、次に読むべき、いや、読まなくてはならない本がジョージ・オーウェルの『1984年』であることは確かである。